2013年3月19日火曜日
水仙
置きっぱなしでその存在さえも忘れていた鉢植えに、水仙が咲いていた。
バルコニーの奥の壁際の、しかも日本でいえば4階の高い場所で、
イギリスのびゅんびゅん吹きまくる風に耐えながら、
こうして綺麗に咲いてくれている。
何年か前のこと、3月の終わり頃に福井県の敦賀へドライブした時に、高波で荒れる日本海に向かって凍えるような風に揺れながら崖っぷちで咲いていた水仙を見ていたから、よほど強い花なのだろうとは分かっていたが、
ロンドンのとんでもなく荒れ狂う突風が吹きまくる中でも茎が折れることもなく、左右に前後に体を揺らしながら咲くその姿に、改めて感心させられる。
強いことは素晴らしい。
水仙は、日本では、その長持ちする生命力のお得感からなのか、枯れる時も花びらが散乱しないからなのか、それともただ単純に”水洗便所”に引っかけられたためなのか、
小さい頃から学校のトイレとか、サービスエリアのトイレとかで見かけることが多かった。
花の形にも色にも、取り立てて心惹かれることもなく、いまだに決して好きな花ではない。
けれどイギリスのこの暗くて長い冬を過ごすうちに、
2月の終わり頃になって公園の隅の方でひっそりと群生し始める水仙を発見するのが嬉しくなってきている。
あとひと踏ん張りですよーという気にもなってきて、心が躍る。
とはいっても、そこからがまた長いんだけれども。
ところで水仙と言えば、日本人にとってはワーズワースの詩『水仙』の方が実際の水仙の花よりも親しみがあるのではないだろうか。
日本人はイギリス人に負けずフランス人にも劣らず、詩という文化に対してとても積極的で、
このワーズワースの『水仙』もずっと以前から日本では読まれてきた。
私も幼い頃に父が読んでくれたものだった。
しかし、その時の私にはその詩のどこが良いのか全くわからない。
はっきりと、「そんな詩は全然好きじゃないから、聞きたくない」とまで言ったのだった。
それが!である。
先日久し振りに本棚を整理していると、「イギリス名詩選」(平井正穂編)という父の本が出てきたので手に取ると、彼がよく読んでいたせいで、その『水仙』のページが自然に開いた。
おぉ~~~~~~っ! 私が好きじゃないやつだ~!
と思いながら読み始めると、
生まれて初めて、その詩に心惹かれたのだった。
なんでだろうね。。。と思ったら、答えは簡単、
年を取ったせいなのだ。
そんな嬉しくも哀しくもある発見だったので、
記念にここにその詩を載せておいて、
いつでも読めるようにしようと思う。
The Daffodils
I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing in the breeze.
Continuous as the stars that shine
And twinkle on the milky way,
They stretch'd in never-ending line
Along the margin of a bay ;
Ten thousand saw I at a glance
Tossing their heads in sprightly dance.
The waves beside them danced, but they
Out-did the sparkling waves in glee ; -
A Poet could not but be gay
In such a jocund company!
I gazed - and gazed - but little though
What wealth the show to me had brought.
For oft, when on my couch I lie
In vacant or in pensive mood,
They flash upon that inward eye
Which is the bliss of solitude ;
And then my heart with pleasure fills
And dances with the daffodils.
水仙
谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、眼の前に花の群れが、
黄金色に輝く夥しい水仙の花の群れが、現われた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に映え、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、躍っていたのだ。
夜空にかかる天の川に浮かぶ
燦(きら)めく星の群れのように、水仙の花はきれめなく、
入江を縁どるかのように、はてしもなく、
蜿蜒(えんえん)と一本の線となって続いていた。
一目見ただけで、ゆうに一万本はあったと思う。
それが皆顔をあげ、嬉々として躍っていたのだ。
入江の小波(さざなみ)もそれに応じて躍ってはいたが、さすがの
燦(きら)めく小波でも、陽気さにかけては水仙には及ばなかった。
かくも歓喜に溢れた友だちに迎えられては、苟も(いやしくも)、
詩人たる者、陽気にならざるをえなかったのだ!
私は見た、眸(ひとみ)をこらして見た、だがこの情景がどれほど豊かな
恩恵を自分にもたらしたかは、その時には気づかなかった。
というのは、その後、空しい思い、寂しい思いに
襲われて、私が長椅子に悄然として身を横たえているとき、
孤独の祝福であるわが内なる眼に、しばしば、
突然この時の情景が鮮やかに蘇るからだ。
そして、私の心はただひたすら歓喜にうち慄(ふる)え、
水仙の花の群れと一緒になって踊りだすからだ。
こうして英語、日本語で書いていると、改めて面白い。
書くということは、勉強になるんだな。
ところで”燦めく”を本にあるように”きらめく”でタイプしたのだけれど、出てこない。
燦然の”さん”で、”さんめく”と入れてタイプしてやっと出た。
訳者が訳してある通りに、本の通りにしたいので、行もふりがなもそのままにしたけれど、
訳詩というのもこうして並べてオリジナルと比較すると興味深い。
それにしても、この詩を好きになったなんて、
やっぱり、着実に年取ってるんだな、私!
’’1802年4月、ワーズワースが妹と散歩している途中、水仙を見たことから書かれたこの詩。
ただし、執筆は1804年のことで、1807年に出された『詩集』の中で公にされたのもという。
そしてかの有名な題名は彼が付けたものではなく、一般に呼びならわされているものに従った。’’
そんな説明書きも本には付いていた。
他にもバルコニーではプリムラが花を咲かせた。
黄色はこの曇天の寒空の下ではなおさら明るくて良いね。
プリムラも丈夫な花で、手入れも何もしなくても、毎年たくさんの花をつけてくれる。
どうなるかと思っていたバラも、だんだんと新しい葉っぱを出してきている。
こんなに寒くても、やはり3月には違いないんだなと、
春を愛するイギリス人の気持ちがよく分かってきた最近のロンドン生活である。
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