大久保祐映さんという名前の大学生が死亡している状態で発見されたという。
死因は髄膜炎の可能性も、と。
山形大学理学部の2年生だった彼は、
10月31日の朝の5時11分という時間に119番通報したのだが、しかし自力で病院に行けると判断され、救急車は出動しなかったという。
そしてその9日後の11月9日に遺体で発見された。
死体検案書というものによると、亡くなったのは11月1日というからなんとも辛い話だ。
電話で対応した職員は、大久保祐映さんに病院の電話番号を書き取らせ、タクシー会社の電話番号を番号案内の「104」で聞くように申しつけた。
しかし、大久保さんが電話をかけた痕跡はなかったという。
この記事を読んだ時、
100%、職員側が悪いとすぐに思った私。
なぜなら、私も全く同じ経験をしていたからである。
私が23歳ぐらいの時、痛み止めをガンガン飲んでもビクともしない猛烈な頭の痛みに耐えられず、生まれて初めて119番通報した。
自分で言うのもなんだけど、小さいころからあらゆる痛みと闘ってきた私は人に比べて痛みに強い。
いつも感じる痛みを誤魔化して毎日を過ごしているようなものだったから、フツーの痛みなんてヘッチャラだったのはその頃も今も変わらないが、
しかしその時の頭の痛みやるや凄まじかったのは今でも覚えている。
まさに、自分頭を机にぶつけていたくらいで、それを何時間か続けた後はとうとう金属バットででも殴ってもらいたいくらい、どうしようもない痛さ。
痛み止めを飲んで横になり、数時間を苦しんだ後、
とうとう119番をしたのである。
どうしていいか一人では分からず、119番なんて自分だってしたくなかったが、これは非常事態に違いないだろうと判断しての末だった。
救急車なんかが音立てて来たら、恥ずかしいなぁなんて心配もチラッとはしたが、それよりもその激しい痛みに、自分に何が起こったのかワケが分からない恐怖があった。
そして、今よりずっと若いとは言ってもそれでももう23歳、電話口では丁寧な言葉使いを意識し、そうすることで少しでも平静を保とうとする気もあったのか、それこそ体の力を振り絞って冷静に自分の状況を伝えた。
すると。
いくつもの質問攻めにされた後、
「本当ですかぁ~?」と、なんとも間の抜けた声が返ってきた。
はい、かなり痛くてどうしようもなくて。。。
と伝えると、
「でも~、こうして電話、自分でかけてきてますよね~?」と言う。
一瞬相手が何を言いたいのかが分からず、
「はい、そうです、痛いのは私で、私が自分で電話しています。」
と言うと、
「じゃ~、そんなにひどくないんじゃないですかね?」と。
えっ??
「いいえ、かなり痛くて、こんな、今まで経験した痛みでそんなにひどくないなんてことはないと思います」
と、今でもはっきり覚えているが私はそう言った。
予想していた展開とは全く違う。。。
でも、いるんですよね~、ちょっと痛い程度とか、自分で行くのが面倒くさいとかで119番通報する人が、、と言うので、
あっ! そーか、そんないたずら電話なんかする人いるんだ!?と私はいきなり自分もそう思われているのかと思ったら焦り、必死になって、自分は普段痛みに強いこと、それなのにこれはフツーじゃないと感じると伝えた。
しかし、「あぁぁ、、、普段から体そんなに強くないんですねぇ? よくあるんですねぇ?」と、そっちに話が進んでいく。
一生懸命説明するが職員にはいっさい助ける気がないのが分かる。
するとその職員、私のことを周りに伝えているのか、それとも別のことを無線で他の職員に言っているのか、朦朧とした頭に何かが聞こえてきている。
お願い、助けてよ、、、と思っていると、
言われたのが、
「でも本当にひどかったら意識失いますからねぇ」。
びっくりした。
そしてここが私のいけないところだが、そんな状態と状況で、
なんと、力なくも、笑ってしまったのだ。
思い余って生まれて初めて119番したにもかかわらず、そんな、気のない職員の、どうしても救急車を出したくないんだという意思が、世間知らずの私にもしっかり伝わって、
なんか、すごいな~、
大人って、こういうこと、平気で言ったりしたりしちゃうんだよな~、
と、23歳でしっかり大人に分類される年なのに、そんなふうに思った自分をよく覚えている。
そして、
「それは、もちろん、意識はありますけれども。意識があったらこうして電話できていないわけですから」
と言うと、その職員、
「そんな冷静に話せるってことは大丈夫ですよ、お近くの救急病院にでも行ってください」。
しかし時は週末かなんかで、確か病院が開いていず、加えて足がなかった。
そもそもそんなことを調べる余裕なんて全くないのだ。
こうして電話しているのが、実はやっとなのだ。
そうしてそのことを伝えると、
「地域には必ず救急病院というものがあって、そこが対応しているはずです」としか返ってこない。
しまいに今回の事件と一緒のセリフ、
「104番にかけて調べてください」。
なんだか自分でもだんだん大丈夫なような気になっていった私は、全てが面倒くさくなって、そのまま話を終えた。
その時に受話器を下ろしながら、
この人達は私がこのまま死んじゃっても何も感じないどころか、そんなことも知らないままでいるんだろう、、と、そんなことを思ったのを覚えている。
そしてその後どれくらいが経ったのか、目が覚めた自分に気が付いて、気を失っていた自分がいたことを知った。
いや~初めてだわ~、本当に気を失ってたのか~と思い、
さっきの職員に電話して、「いやあのですね、さきほど意識を失いましてですね、、」と言ったら、
「でもまた意識戻りましたよね~こうしてかけてきてるんだから。」と言われるだろうと想像して笑えた。
いや、笑っている場合じゃないぞ、、と新たに受話器を握りしめあちこちに電話をかけ、唯一開いていた病院を探しだしたらそこは漢方の病院。
しかし藁にでもすがる状態の私はとにかく最大の効き目がある痛み止めさえもらえればそれでよく、父に頼んで行ってもらった。
痛み止めをもらい、そこで丁寧に親切に扱われ、それだけでホッとしたのを覚えている。
もらった痛み止めをその場でひったくるようにがぶ飲みする救急夜間で来た患者に驚いたのか、
帰り際は看護婦さんと先生が揃ってドアの所に立って「明日はきちんと病院に行きなさい」と言って見送ってくれた、その心配そうな顔に、とてもありがたく感じたのを覚えている。
そして部屋に戻るなり倒れたのだった。
次の朝、弟の剣道の合宿だったのかよく覚えていないが、付き添いで家にいなかった母親が戻ってきていて私を起こした。
ちょっと、ちょっと、病院へ行こう、と。
私は昨夜飲んだ大量の漢方の痛み止めが効いたのか、気分はボーーっとしているし吐きそうだけれど、気分が飛んでいてなかなか良かった。
もう金属バットでは殴って欲しくないな、、、なんて思っているから、あの救急職員が疑ったように、もしかして一時的なものなんかな。。とまで自分のことも疑い始めていた。
なので、「吐き気がするけど、でもだいぶマシな気もするし、寝てたら治るよ」と、どうしても外出なんかしたくない私は言い張ったけれど、
「何言っているの!! 服着たままぐったりしているのを今何回も呼んで起こしたのよ! 病院に行かなきゃ絶対ダメ!」と母。
その時、私も直感があったのか、
案外素直に、じゃ、行っておこうか、、、と私も思い直し、大きな病院に行った。
先生にはどんな状態だったかはいっさい言わずに診察が終わり、話があるからと別室に行くお医者様と母を眺めながら、早く帰りたいな~、特殊なインフルエンザかなんかで注射とかして、家で寝てなさいって言われるんだろうな~、、、なんて気楽に構えていたら、
いきなり母親の叫び声を聞いた。
そして、先生、先生、本当に大丈夫なんですか?!!と繰り返すばかり。
しょーがねーなー。。。私の母、また気がすぐ動転するからやりにくいったらないんだよな~。。
と、なになに、どうした??と聞くと、
「ミキちゃん、よく聞いてね、、背骨に針を刺すっていうの!!」と母が騒ぐ。
直接先生に話を聞くと、髄膜炎の可能性があって、髄液を取りださなければならない言う。
それを取り出して調べないことには、髄膜炎にかかったかどうか分からないと。
それで、先生にその時になって初めて昨夜の状態を話し、あんな痛かったのに今はそれに比べたらかなり良いこと、それを考えたら大丈夫そうだと言うと、
髄膜炎にもいろいろあり、一時的に落ち着く場合もある。しかしそれでも放っておくと脳に菌が移行するのが髄膜炎だ、と説明された。
そうしてどんなに安静にしていても、どうやらその菌は自分で出て行ってはくれないと分かった。
私が検査をお願いしたら、「ミキちゃん!!そんな簡単に決めて!! 背骨よ! 背骨に注射するのよ!!」と母が叫ぶが、もう選択肢は髄液を取って調べてもらうことしかないじゃないか、、、
髄膜炎かもしれない、そうじゃないかもしれない、
しかし髄膜炎の可能性が高い、と。
髄膜炎だった場合、ほっといたら死ぬと。
だったら検査するしか道がないじゃないか?
それで、デッカイ太いパイプのような注射器で、ズンと体の芯に響くような衝撃と共に髄液が取り出され、終わるとすぐに車椅子に座らせられた。髄液を取った後は歩いてはいけないというのだ。
なんか、大げさになってきたな~なんて思うのも束の間、すぐに結果が髄膜炎と分かり、そのまま車椅子に乗った格好で病室へ移動と言われた。
横で母は入院手続きや、とりあえず必要な身の回りの物などの説明を半分訳が分からないような顔で聞くことになり、
私は先生に、「じゃ、少ししたら私もウチに帰って入院の準備をしてきます」と言ったら怒られた。
そんなのが私の髄膜炎体験だったのだけど、
私とこの大久保祐映さんの違いはやはり一つ。
彼はたった一人だったということ。
可哀想に、下宿していたのでたった一人、朝方まで、多分相当苦しんだであろうその後に119番をし、会話を強いられ、それでも助けられることなく死んでしまった。
20年近くたった今も鮮明に思い出すあの時の悶え苦しんだ痛みを、彼はその時一人で切り抜けようとしていたのかと思うと、悔しくて悲しくて、口の中が苦くなる。
彼の母はさぞかし無念だろうと思う。
いつも思うのだけれど、そういう職員て、数時間したら「あの子きちんと病院行ったかな?」とか思い出すのだろうか?
後で思い出すようなら、そんな心残りをしないでいられる自分のためにも一応は救急車を呼んだ方が得策とは思わないのであろうか?
いたずらかいたずらじゃないか、
痛みの程度はどうなのか、
そんなことを電話のやりとりで出来る判断能力が備わっているのか?
今頃、その大学生とやり取りした職員は、
自分が見殺しにしてしまったその張本人の職員だと自覚しているのだろうか?
深く悔いているのだろうか?
私の時からもうそろそろ20年が経とうとしているのに同じことが繰り返され、私の時はラッキーで、彼の時は不運だったと、そう思うしかないのか?
知り合いのオーストラリア人はかつて消防士だった頃、
電話で話しているといつもポケベルがピーピー鳴り、
「ミキ、ごめん、火事だ、行かなきゃ」と、挨拶そこそこに電話を切り、
するとしばらくして彼からまた電話があって、
「また、いたずらだった! こんなのばっかりでうんざりするけど、でも出動しないわけにいかないだろ?」と言っていたもんだった。
ある日、彼の堪忍袋も爆発し、小さな火をおこして火事だと通報してきたその男の子達に、
「おまえら、嘘言う狼って話を知ってるか?!! 嘘ばかり言って人に迷惑かけて税金を無駄に使ってたら、いつか本当にお前達が困った時に誰も助けてくれないぞっ!!」
今日はつい、そう怒鳴ちゃったんだ。。。とその夜落ち込む彼がいた。
しかし、行かなければならなかったのだ。
どんなにおふざけ声だろうが、出動しなければならなかった。
私がその髄膜炎の時に電話で話した声は決しておふざけ声ではなかっただろうし、大久保祐映さんもそうではなかっただろうと思う。
オーストラリアの消防車が必ず出動しているわけではないかもしれないし、
大久保さんのいた山形の救急車が出動をセーブしているわけではないとは思う。
しかし、そういう職務にいる以上、緊急性がないので出動しないなどという判断を一職員に任せてはいけないと思う。
もうずっと前のことで、その時の会話全てをくっきりと書き出すことはできないが、他にも驚くようなことを色々言われたし、心配そうな声で詳しい状態を聞いてくれる事はとうとう一度もなく、それどころかそんな対応をされたことはこれからも一生忘れずに残ると思う。
だからこうして、大久保祐映さんのニュースを読んだ時に、
あーーーーっっ!! 私も同じ経験してる!!と即座に思い、
そして髄膜炎の可能性を示唆、、ってあるけど、多分それは髄膜炎だ、とハッキリ確信したのだった。
この事件があったのは2011年のことという。
確か、何かの非常事態には公衆電話でもお金がかからないで110番や119番に電話出来るようになっているから安心しなさいと教わったのはまだ1970年代の私が小学生の頃だったけどな。